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成田の遊べる公園景観スポット

成田市は緑豊かな街並みがあると共に、近代的な国際空港を有しています。その様々なスポットがある中で、今回は、水と緑の豊かな自然公園と癒しの絶景景観を楽しめるスポットをご紹介します。

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印旛沼の景観で癒されよう!

印旛沼はかつて、下総台地の中央に位置しているダブルの字型の大きな沼です。しかし、戦後の干拓で2つの細い水路でつながった北印旛沼と西印旛沼に水域が分かれ、当時の面積より半分以下に減少しています。

印旛沼と聞くと、汚いイメージがあるかもしれません。しかし、実際に見てみると・・・

甚兵衛公園から印旛沼に向かって堤防から眺める印旛沼は、様々な水生植物(アシやマコモ等々)の景色が広がっています。

この周辺は、県立印旛手賀沼自然公園に指定されており、愛鳥家の人達が水鳥の写真を取るべく、多くの方がシャッターチャンスを狙って訪れています。

また、印旛沼の南側沿岸には京成本線が通っており、成田スカイアクセスを通り抜けるスカイライナーが鉄道ファンにとっても、魅力に一つとなっています。

夕日を映す景色は、そんじょそこらの、景色とは違いますぞ!(笑)

ときめき・寂しさ・憂い・明日に向かうパワー・自信を取り戻す、などなど、感じ方は、季節や人によってそれぞれですが、一見の価値は十分ありです!

是非1度、足を運んで下され、ませ!

旧学習院初等科正堂が懐かしい!景観

房総のむら(平成16年までは房総風土記の丘)の一角に、旧学習院初等科正堂がひっそりと、たたずんでいます。

この旧学習院初等科正堂は、明治23年に当時の東京市四谷区尾張町に建造され、使われてきましたが、その後、昭和12年に新たな正堂を新築するに伴って、印旛郡遠山村の遠山尋常高等小学校(現在の遠山中学校)に講堂として移築されたものです。

正堂が新築される1年前の昭和11年、宮内庁では皇太子殿下(現在の天皇)が学習院に入学するに伴い、その正堂の改築を検討していました。

しかし、明治天皇の意向で建築された正堂を解体してはいけないとの意向があり、その保存先を検討していました。

当時の遠山村では、尋常高等小学校の新築を検討していましたが、予算不足でとても新築は出来ない状態でした。そんな中、村内にある御料牧場の寄付をいただく申し出を宮内庁にしたところ、正堂の譲り受けの話があり、この遠山村に移築されたものです。

移築された旧学習院初等科正堂は、昭和48年に国の重要文化財に指定されました。その後の昭和50年に、現在の場所に移築されたものです。

この旧学習院初等科正堂は、西洋建築のデザインを取り入れるとともに、日本の伝統的木造建築の技術を駆使して作られたものです。

落ち着いた雰囲気の建築物は、周囲の四季折々変化する森林と溶け込み、歴史を感じ、自然を楽しむ憩いの場、憩いの景観として、県立房総風土記の丘や県立房総のむらを訪れる人達に親しまれています。

坂田ケ池総合公園は子供より大人が楽しくなるBBQ

水と緑の自然が美しい公園として、小さなお子様を持つ家族連れの方からお年寄りの方まで、幅広い年代の人達が楽しめる総合公園です。

キャンプ場がある公園は坂田ケ池総合公園

JR成田線の下総松崎駅から、北に約1Km程にある坂田ケ池総合公園は、坂田ケ池と言う池を取りこんだ総合公園です。

池の大きさは約5ヘクタールで、水に親しめる自然豊かなロケーションです。園内には、キャンプ場、芝生広場、遊具のある森の遊び場などがあり、各シーズンを通してたくさんの人が訪れ、満喫しています。

その他にも、浮橋やつり橋などもあり、時間を忘れて楽しめる憩いの公園です。

また、池の周りには遊歩道が整備されており、四季折々の様々な草花を観賞する事が出来ます。

野鳥の観察も出来るので、野鳥ファンにはたまらない公園です。

場所:成田市大竹1450番地

駐車場有

JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分

坂田ケ池総合公園の場所はこちら ⇒ 坂田ケ池総合公園

三里塚記念公園のマロニエの並木道の景観だけじゃない!

成田市の三里塚地区には、宮内庁下総御料牧場(くないちょうしもふさごりょうぼくじょう)が、昭和44年(1969年)8月までこの地にありました。

その後の成田空港の建設に伴い栃木県に移転しました。跡地につくられたのが、三里塚記念公園です。

この三里塚記念公園は、宮内庁下総御料牧場の面影を残すための公園として残された公園です。公園内にある三里塚御料牧場記念館の正面に広がるマロニエの並木道の景観は、当時を今に伝える貴重な景観です。そして、心が癒されます。

御料牧場記念館は、およそ100年にも及ぶ我が国の畜産振興の輝かしい実績と幾多の記録を残すために建てられたもので、当時の歴史を感じることが出来ます。

また、公園内には貴賓館や三里塚にゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。春には桜が咲き揃い、お花見スポットとしても賑わいます。

過去には、三里塚の春は桜樹10万株とも言われ、花で満ちあふれ多くの人を集め近くの成田山新勝寺、宗吾霊堂とともに名勝地として人々に親しまれていました。

当時の三里塚の桜は、牧場の防風林として植樹され、杉。・松・けや木と共にヨシノ桜・山桜・ボタン桜などが植えられました。そして、広大な牧場を散策しながら花の観賞が出来るで有名で、「一里、二里、花は桜の三里塚」と、もてはやされていました。

移転する最後の桜まつり(昭和44年)には、名残を惜しむ延べ20万人の花見客で賑わった記録が残されています。

ここは、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。

場  所:成田市三里塚御料1番地34

施設内容:面積:2.9ヘクタール

主な施設:御料牧場記念館・貴賓館・防空壕・テニスコート・マロニエの並木道

主な樹木:マロニエ・ホウノキ・ソメイヨシノ・ケヤキ・ツバキ・サザンカ

アクセス:JR成田駅東口から3・4番乗り場、JRバス関東(三里塚・多古・八日市場行)乗車約20分、「三里塚」下車徒歩3分

宮内庁下総御料牧場(くないちょうしもふさごりょうぼくじょう)は1969年(昭和44年)8月18日まで、千葉県成田市の三里塚地区に存在していた御料牧場の名称です。

富里市両国に立つ大久保卿牧羊場選定の碑

その前身は、江戸時代、下総台地の北部に江戸幕府によって佐倉牧が設置されて軍馬や農耕馬の放牧地がありました。

佐倉牧は7つの牧から構成されていたことから「佐倉七牧」とも称され、三里塚一帯には七牧の1つであった「取香牧(とっこうまき)」が置かれていますた。

佐倉牧は幕府の終焉により1869年(明治2年)に廃止されたのです。

一方、文明開化の煽りを受け国内での羊毛の生産を高める必要性が起こり、青草に富むこと樹林地に恵まれていること物資の輸送に便利な所を条件に、内務省は用地選定にアメリカの牧羊家アップジョーンズを起用して各地の実地調査を行いました。

その結果、七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場したものです。

この時、取香牧も閉場し牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足しました。この頃、内務卿・大久保利通は現地の視察を行い、また牧羊場・種蓄場両場の初代場長に内務省の岩山敬義が就任したのです。

現地に伝わる逸話として、視察に来ていた大久保が、両国区(現:富里市両国)付近で取香牧の馬が田畑に侵入しないために設けられていた野馬土手に駆け上り、「ここが適地である」と一言、同行者に告げたということが、記録に残っています。

御料牧場事務所(1919年(大正8年)・三里塚記念公園)の設立

1878年(明治11年)5月、大久保が暗殺され非業の死を遂げました。その影響もあってか、1880年(明治13年)1月、両者が合併して下総種蓄場となりました。

この合併は事業を整理する意味合いが含まれていたとされています。下総種蓄場は場内を三里塚区、両国区など七区に分けられており、本庁は両国区高堀に置かれました。

下総種蓄場の管理は1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移されたものです。

その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少してしまいました。

大正から昭和時期

明治から大正にかけて牧場経営は改善が図られ、事業は更に縮小へと向かいました。1922年(大正11年)には牧場の経営が悪化し、馬の繁殖を一時中止してしまいました。

そして、1923年(大正12年)、牧場の総面積の6割にあたる2,044町歩を帝室林野局へ移管し、かつての7区から三里塚、両国の2区だけとなりました。

昭和に入り、馬の繁殖が再開されサラブレッドだけでなく、アングロ・アラブ(フランス原産)などの競走馬も手がけ、かつての活況が取り戻されて行きました。

特にサラブレッドの産出は名高いものがあり、1927年(昭和2年)英国から輸入されたサラブレッドの種馬・トウルヌソルからは第1回東京優駿大競走の優勝馬ワカタカが出たにです。

また、1935年(昭和10年)に輸入されたダイオライトからは三冠馬セントライトも出ました。

戦後、伊達広(日本社会党)らが中心となって御料牧場尾解放運動が起きました。

閉場から現在まで

三里塚御料牧場跡(三里塚記念公園・成田市三里塚御料)

1966年(昭和41年)3月、政府は「臨時新東京国際空港閣僚協議会」を改組し、千葉県と協議・検討を続けた結果、富里の東方約10kmに位置する三里塚付近が航空管制、気象条件などの諸条件面で富里と差異がなく、また国有地である下総御料牧場及び、県有地を最大限に利用し、かつ敷地面積を航空審議会答申規模の約半分にする事により、民有地の買収を極力少なくして地元住民に対する影響を最小限に留めることができるなど利点があることが判明したのです。

同年7月4日の閣議で「新東京国際空港(現・成田国際空港)の位置及び規模について」を決定。牧場は、空港敷地となることに決まりました。

1969年(昭和44年)8月、御料牧場は栃木県高根沢町に移転することが決定され、同月18日に牧場の閉場式が行われましたが、成田空港反対闘争激化の折であり、空港反対派が場内に乱入するという場面もありました。

こうして、明治以来の歴史に幕を閉じたのです。

新牧場へは80家族約300人、家畜約400頭が移転した。下総御料牧場の一部は三里塚記念公園として保存され今日に至っています。

※出典: フリー百科事典ウィキペディア

北印旛沼と甚平衛渡しと甚平衛公園

ここは、房総の魅力500選にも選ばれた景観地です!

四季折々の花と松林を楽しむことが出来る、甚平衛公園。春は菜の花、秋はコスモスのある花畑が絶景です。甚平衛公園は、昔・昔その昔、渡船場で、義民・佐倉惣五郎のために掟を破って船を出し、印旛沼に身を投じた渡しの守の名を取った公園なんです。

この公園は、県立印旛手賀沼自然公園の一部にあり、松の大木が松林となっており、悠々とした景観が望めます。この松の木は、1983年(昭和58年)5月に日本の名松100選に指定されています。

場所:成田市北須賀1254番地3他

交通:コミュニティバス運行 成田市役所~甚平衛渡し下車(北須賀ルート)降りてすぐ。

甚平衛渡しとは?

直訴へと向かう佐倉惣五郎が通った渡しの跡地。渡しの名の由来は、掟を破って佐倉惣五郎のために対岸に送り届けたため、捕まってしまうより、自ら印旛沼に身を投げたとされる、仁侠の渡し、守甚平衛から来ています。

この印旛沼は、鯉や鮒、ブラックバスが数多く生息しており、釣り人にはたまらない場所です。

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